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2003/08/13

終戦の日の少年の回想

2002年夏の終戦の日、SSM会員のメーリングリストに流れた平和への祈りをこめたメッセージの数々です。それぞれ語り尽くせない思いがあります。
 
01終戦の日の少年の回想 02Re:終戦の日の少年の回想−@ 03私の8月15日。
04Re:終戦の日の少年の回想−A 05Re:終戦の日の少年の回想−B 06Re:終戦の日の少年の回想−C
07終戦の頃の回想−@ 08Re:終戦の日の少年の回想−D 09終戦の頃の回想−A
10終戦の頃 11Re:Re:終戦の日の少年の回想−B 12Re:終戦の日の少年の回想−E
13私の8月15日 14終戦の頃 15Re:Re:Re:終戦の日の少年の回想−B
16終戦の年 17用意周到。 18戦火を潜り抜けて
19東京の空襲・1 20東京の空襲・2 21「終戦の頃」を読んで
22Re:終戦の日の少年の回想−F 23Re:終戦の日の少年の回想−G 24私の偏頭痛と死線を3度超えたこと
25私のビルマ戦記ー1 26私のビルマ戦記1−2 27私のビルマ戦記ー2

終戦の日の少年の回想
 

終戦記念日になると当時の事が甦ります。当時14才の中学生でしたが、戦中教育を受け、男子として少年であっても家族を守らなければならぬと教えられ必死で生きて来た時代です。

私の昭和20年終戦の日はその前日から親、妹達を訪ねての少年当時の苦難の一人旅の一日でした。

以下、申し上げますが皆様の終戦の日は如何に過ごされましたか?
皆様夫々ご苦労があったと思いますが是非お聞かせ下さい。

私達一家は東京都港区芝汐留町に戦中まで住んでおりました。

戦後この町名もなくなり今では更地となり再開発地となっており、当時のご近所の方々は近くに殆ど住んでおられません。

昭和20年3月10日の大空襲で町内の一部が被災しました。
その被災の夜、空襲が激しくなる中、母と妹達、ご近所のおばさんと子供達を集め芝公園めざして子供ながらも避難誘導しました。まだその頃は本格的な疎開が話題に上る前の頃です。

些か逃げ遅れたので多くの人達は避難した後でした。父は警防団の要職にあり男の大人たちは消火に駆り出されていて、私に父から女、子供を誘導するよう命じられました。逃げ遅れた人は居ないか呼び集め、火の粉が強風舞う中、乳児を背負った母、それと同じようなおばさん達の叫び声を聞きながら芝公園へと逃げました。しかしその公園にも焼夷弾が炸裂し、生木がばちばち焼け、辺りが明るく、一面煙が立ち込め息も思うように続けられない状態でした。いま「背中の子供は大丈夫か?」と何度も何度も繰り返し尋ねられたおばさんの叫びの記憶が甦ります。やっと増上寺・山門の近くのビルの地下室に誘導されてこの日
はどうやら難を免れました。

この日を境に我が一家は戦争の苦しみを一層体験させられる事になりました。

4月になるとこの汐留の家は国から強制取壊しとなり、母と妹4人は父の実家に疎開し父と私は東京に残る事になり、港区琴平町の時計屋さんの一階を間借りすることになり、5月25日の
空襲で焼失するまでそこに住みました。(場所は日石本社の前、西側)その日は焼夷弾落下。そして消火、焼失とその後焼け跡へ生き延びるなど父と必死で頑張りましたが詳細は省略します。

焼け出され翌日から愛宕山トンネル入口にある巴町の知り合いのご一家にお世話になることになりました。なにしろ持ち出した物は二台の自転車の荷台に乗せられた物だけで、ラジオ、食事道具一色程度と全く着の身着のままの状態でした。その後6月に入り、汐留時代のご近所の方が住み変えられたお宅(世田谷区下馬ニ町目)に父と共にお世話になることになり
ました。大きなお宅でその後長らく4世帯の方が同じ屋根の下で住まわせていただきました。

8月の夏休みに入り母と妹の疎開先に我が一家が集う為、先ず父が先に東京を立ち、遅れて私が一人で行く事になりました。疎開先は岐阜県揖斐郡大野町と言う所で、JR岐阜駅―市電―名鉄と乗り継いで清水駅までの旅です。

当時、長距離切符は販売制限があり学割証を基に新橋駅の切符売場に夜明け前から一人で並び買い求めました。いよいよ旅立ちです。出発は終戦の日の前日8月14日夜です。

東京午後11時30分始発、大阪行きに乗る予定でしたが、駅に着いてみると名古屋以遠不通との事で名古屋止まりと掲示されていました。一瞬戸惑いましたが名古屋まで行けば何とかなる、と覚悟して又、親、兄妹にも会いたい一心で乗り込みました。荷物は肩掛けカバンの中に宿題のノート、教科書、参考書、それにおばさんがつくってくれた有り難いお弁当です。
もう座席には座れず、座れない人達は通路にしゃがみ込んで休み場所を確保していました。
私、少年に対して車内の周りの大人達は色々と親切に手を貸して下さいました。

列車は定刻に発車したか記憶しておりませんが平塚付近で列車が停車しました。小田原が空襲中とアナウンスがあり車内が騒然となりましたが、空襲下の小田原駅を通過して走ると放送があり、燃え盛る小田原市内を横目に列車は驀進し、早川のトンネルに走り込みました。海側の燃え盛る街の夜景は今でも目に焼きついています。

それから列車は暗闇のトンネル内に空襲が終わるまで、安全が確認するまでそこに留まって居たのだと思います。長かった時間です。なにしろ真夏の暑い盛りで車中は息苦しくとうとう人々は車外へ自発的に出て息抜きを始めました。蒸気機関車であったらそれこそ窒息死の人も出たと思います。

この暗闇の時間は1時間以上はあったかと記憶しています。懐中電灯をたよりに車外に出て唯、涼しさを求めての避難でした。今思うとなぜ上り列車が来なかった不思議です。
それにしても小田原市は終戦の日の前日に不運にも戦災を受けたのです。

安心を見届けて列車は走り出し、こんどはたしか大井川だと思いますが、鉄橋の上で暫く止まりました。見事な日の出、それと朝の冷気の心地よさは今でもはっきりと憶えています。

やがて列車は名古屋駅に到着、(たしか11時前後)最初の予告通り下り列車の発車見込みは当分無いとのことでした。しかし旅行予定の大人たちはどうすることも出来ない人が多く、
あの広大な名古屋駅の玄関ロビーはそれとなく発車を待つ人達で混雑していました。

そこに重大ニュースがあるとの事で、それでは大戦果であろうと人々は期待をもってささやき合い、待機しておりました。
ところがその時間を過ぎても要領をえず大人に聞いても不明確な回答で、駅側からもこの重大ニュースの報道はありませんでした。

その内に大人の人達の予想通りに「下り」が走る事になり、やっと岐阜の駅に降り立ちました。時間は午後5時頃だったと思います。
ホームに下りて驚愕しました。駅とその周辺が丸焼けの状態で、想像だにしない情景でした。
それからはお決まりのコースで家族の疎開先の家に辿り着きました。

親から最初に聞いた言葉は「戦争に負けた」の一言でした。戦争に負けるのが嫌で必死に家族に会いたくてやっと辿りつけたのに何と言う事か。悔し涙が中々止まらず、へたり込みました。

落ち着くと今度は空腹が襲いました。考えてみると朝おにぎりニ個食べただけです。家の前の鶏小屋に卵が産み付けられていて、伯父さんの了解を得て食べた生卵の味は忘れられません。

翌日目が覚め、昼間もぼーっとしていると戦闘機が一機、日の丸をきらめかせて飛んでいました。なにか空しいような、力の弱弱しさを感じた情景でした。

8月15日の終戦の一日は私にとっても苦労させられた一日でした。しかし毎日のように戦災、戦死など数え切れない災難がこの内地の戦場(当時銃後と言っていました)にても繰り返されて来ました。

今考えるとこの日の私の体験など軽いものです。もう何回と無く繰り返し空襲の恐怖にさらされて来た東京市民達、こうやって無事に生きながらえて来られたのも、数えきれない方々のお陰で支えられて来たことを終戦の日が来ると合掌して心からお祈りしています。

これは戦後初日の私のひとコマです。戦前、戦中と焼け出され、その後もずっとこの目で東京を見て生き延びて来ました。戦中当時の新聞を見るとそのときの生活ぶりが甦ります。
混乱期の写真などが無く残念です。それだけにいま孫、子にも我一家の生き様を言い伝え、記録しようとその緒についたところです。私にはそれを伝える義務があると思えるのです。
自分の手柄話などはどうでも良いのです。

戦中の東京での空襲の体験など、また戦後の混乱期の生活等、記憶を辿りながら徐々に纏めたいと思っています。

長々と取りとめもない話で失礼しました。
お許し下さい。

 鳥本 恵司
 

   
   
 

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